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2007年03月 アーカイブ

2007年03月25日

法起寺(奈良県)調査旅行



 法起寺


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 法起寺は奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院で、古くは岡本寺、池尻尼寺とも呼ばれた。本尊は十一面観音。法隆寺地域の仏教建造物の一部として世界遺産に登録されている。                            
この地は、聖徳太子が法華経を講じた岡本宮の跡地と言われ、太子の遺言により子息の山背大兄王が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりとされる。これは「聖徳太子伝私記」という記録に引用されている露盤銘を根拠とする見解であったが、昭和三五年以来の発掘調査により裏付けとなる雨落溝や掘立柱の遺構が検出された。また、三重塔の西に金堂、この両者の北に講堂が配置されていたこともわかり、法起寺式伽藍配置と命名された。法隆寺西院伽藍では金堂が東に五重塔が西に配されているので対照的である。創建当時の建築のなかで現存するのは三重塔のみである。ここでは主に三重塔を見学した。

  
三重塔 

       
現存日本最古の三重塔である。建立時期は露盤銘や建築様式から七〇六年頃と推定される。高さは二四mあり、軒が深く、簡素だが豪快な佇まいである。法隆寺五重塔を模しており、初層と二層は柱間が三間、三層の柱間は二間で、法隆寺が五層を二間としているのと共通点がある。また、法起寺の初層、二層、三層の大きさが法隆寺の初層、三層、五層と同一寸法であることも指摘されている。その他、皿板のつく大斗、雲形肘木の組み物、卍崩しの高欄等、法隆寺との共通点がみられた。建立後に再三にわたる大修理が行われたため、建立当初の姿が明らかでないところもあったが、昭和四五年~五〇年の解体修理の際、それまでの研究成果を踏まえた復元がなされ現在に至る。

酒船石遺跡調査旅行



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この遺跡は奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡である。以前から知られている酒船石に加えて、平成四年に酒船石の北側の斜面で石垣が発掘され、平成一二年には亀形石造物と小判形石造物が発掘されている。
 酒船石は、竹やぶに囲まれた急な斜面を登った丘の上にある。花崗岩の巨石を使用して上面には皿状のくぼみとそれらをつなぐ溝が彫られている。後世に南と北の部分が割りとられているが、長さ約五・五m幅約二・三m厚さ約一mもある。用途については、酒、油、薬をつくる道具とする説、天文観測説、祭祀、呪術に関係するものとする説、庭園に水を引いたとする説等諸説あり特定されていない。
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亀形、小判形石造物は大変精巧に造られており、当時の石工の技術としては卓越している。朝鮮半島の渡来系石工の存在が考えられるが、吉河会長も韓国の慶州にある雁鴨池に亀形のよく似た石造物が存在することをを指摘しておられる。九月後半には韓国研修会が予定されているので、実物を見て考察を加えたい。
この遺構が何のために造られたものであるかについては諸説ある。猪熊兼勝・京都橘女子大教授(考古学)は、遺構が東西の山に挟まれた谷に広がり、閉鎖された空間に立地していることに注目して、「単なる庭園ではなく、水にかかわる祭祀施設ではないか」と解釈している。一方和田萃 ・京都教育大教授(古代史)は、「遺構は、日本書紀の斉明記にある『宮の東の山に累(かさ)ねて垣とす』に相当する石垣が見つかっている山の尾根に位置することから、山の上にある酒船石も含めた一連の苑池施設だったのではないか」また、「いくつかある斉名天皇の時代の苑池庭園の中でも、外国使節など特別な身分の人を迎える天皇の個人的な儀礼の場だったのではないか』と述べている。発掘担当の西村慎治技師・明日香村教委も、『明日香村には須弥山石や石人像がある石神遺跡や、昨年(平成十一年)見つかった飛鳥京跡苑池遺構がある。これらが公的な空間だったのとは対照的に、今回の遺構は閉ざされた空間。使い分けて利用したのだろう』と庭園説を述べている。
これらの遺構が庭園だったとすれば、初期の日本庭園として貴重である。今後の研究の進展を期待したい。

飛鳥寺研修 



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蘇我氏の氏寺で、本格的な私寺としては日本最古の法興寺を前身とする。現在の正式名称は安居院(あんごいん)で、飛鳥寺は呼称である。法興寺は、崇峻天皇元年(五八八)に百済から仏舎利を献じられた事により、蘇我馬子が建立を発願し、推古天皇四年(五九六)に完成したと伝えられる。当初の伽藍は、五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の壮大なものであったことが発掘調査の結果分かっている。現在の本堂は、江戸末期に再建されたもので小規模となっているが、本尊は通称飛鳥大仏として広く知られている。飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)は、止利仏師の作で推古十四年(六〇六)完成したものと伝えられる。鎌倉時代の火災で大きな損害を受けているが、表情には飛鳥彫刻の特徴が伺える。同じ止利仏師作の法隆寺金堂・釈迦三尊像と似た印象を受ける。
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また、飛鳥寺の西側に「入鹿の首塚」として五輪塔がたてられていた。大化の改新の担い手となった中大兄皇子、中臣鎌足によって暗殺された蘇我入鹿が祀られているのだが経緯は定かでない。
二日目の研修は以上、斑鳩から飛鳥へと古代の神秘的な文化を感じることができた。

円成寺研修



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奈良市忍辱山町にある真言宗の寺である。平安中期の万寿三年(一〇二六)命禅上人の開創。実範上人、寛遍僧正などが止住して隆盛をみたが、文正元年(一四六六)の応仁の兵乱にかかり焼亡。その後再興し、江戸時代には家康の殊遇を得て一大霊場となった。幕末の動乱、明治維新の神仏分離以降の衰退をのりこえ聖域を確保している。
庭園
仁平三年(一一五三)寛遍僧正の時に伽藍の前に園池が掘られ、南門から池中の中島を経由する二本の橋を通って本堂に至る泮池様式とされた。阿弥陀の極楽浄土にあるという阿弥陀宝池を表現した浄土庭園の一例でもある。現在橋は失われているが、中島は残っている。また、池の北側に岩島のような岩組も残されているが古来のものであろうか。時代は下るが籬島軒秋里著の大和名所図絵寛政三年(一七九一)には、池のやや北寄りに中島があり、朱塗りの反り橋が架かっている様子や、西側にある第二の中島、池中にある幾つかの景石が描かれている。
また、北側池中には石臼型手水鉢がある。以前は底に穴を穿ち噴水として用いられていたようである。元弘三年(一三三三)の銘が刻まれているが模刻品らしく、実物は東京博物館梁瀬分館に移されたということである。
なお、明治初期に、伽藍地と苑池の間に池を埋めて県道が通され、美観を損ねていたところ、昭和三六年道路を庭園の南に移し、昭和五〇年発掘調査、昭和五一年に復元改修工事が森蘊氏の指導の元に行われている。
楼門
文正元年(一四六六)消失し、応仁二年(一四六八)再建される。三間二面入母屋桧皮葺で、総円柱にして、上下層とも肘木に木口がある和様三手先を用いる。上層部は縁板を廻らしてあるが、勾欄も、扉も、連子窓もなく、朱塗も施されてない。そのため素朴な印象を受ける。なお、上層部は、大正五年に原形を留めないほど破損していたが、当時の県技師天沼俊一氏の監督の下、下層に準じて設計、施工された。
操作なし しかし、下層には正、背面とも当初の花肘木が保存されている。正面には蓮唐草浮彫の中央、蓮華上の月輪に梵字?キリーク(阿弥陀如来)を刻み、背面には牡丹唐草浮彫の中央、牡丹花上に宝珠を刻む。この花肘木は大仏様の皿斗の上に乗っており、花肘木上の斗もない。双斗から発展したといわれる花肘木が使われ出した当時としては大変豊かで優れた意匠といえる。また、屋内では大仏様木鼻と像鼻に近い木鼻の二様の木鼻が併用されている点も興味深い。
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春日社・白山社本堂の東側石垣上に二棟続きの春日造の社殿がある。白山大権現・春日大明神を祀る円成寺の鎮守社である。鎌倉初期の安貞二年(一二二八)奈良春日大社造営の際、旧社殿を遷座したもので、全国で最も古い春日作り社殿として貴重であるところから、国宝に指定されている。
細部では、脚の踏ん張りや、肩の張りが力強い古式刳抜蟇股、おおらかな軒反等に着目した。小社ながら、細部意匠から全体のバランスに至るまで美が凝縮されている。
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仏像その他
大日如来座像は、運慶直筆の銘を持つ最初期作として名高く、国宝に指定されている。近年建てられた多宝塔の本尊として安置されている。智拳印を結んだ結んだ姿は、若々しい力を感じさせる。
その他印象に残ったのは、勧請縄と呼ばれる珍しい形をしたしめ縄である。東の入り口に吊されていて、神仏をお迎えして、五穀豊穣、家庭円満を願う村人の願いが込められているそうである。この地方独特の民俗資料である。
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都塵を絶した自然の懐に抱かれ、心身が清められる様な情緒深い聖域の中に数々の文化遺産を持つ円成寺は大変印象深い。

2007年03月26日

岩船寺研修



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京都府相楽郡加茂町にある真言律宗の寺である。奈良県との県境に位置する。浄瑠璃寺から北東に約一キロの山峡にあり、鄙びた山寺の佇まいである。
創建については明らかでないが、寺伝によれば天平元年(七二九)聖武天皇の発願により行基菩薩(六六八~七四九)がこの地に白山神社を建てたことに始まる。さらに行基は岩船寺にほど近い鳴川に阿弥陀堂を営んだが、後に弘法大師空海がそこに善根寺を建立した。そして、空海の甥にあたる智泉大徳が、嵯峨天皇の皇子の誕生を祈願して、善根寺の灌頂堂内に報恩院という一院を建立した。その後、皇孫誕生のこともあって弘仁四年(八一三)堂塔伽藍が整備され、後に岩船寺となったと伝えられる。ただし、善根寺報恩院が岩船寺の前身であるという確証はない。
岩風呂
境内に至る石段の手前に置かれている。鎌倉時代作、花崗岩性、舟形で、深い水穴が穿たれており、立派である。人一人楽にはいることのできそうな水穴なので現在の湯風呂と勘違いしそうになるが、会長のお話では、蒸風呂用の水を湛える設備であったということである。現在では石風呂を手水鉢に応用している例がある。
五輪塔
山門の東脇にある。高さ約二.三五mで鎌倉後期の作、この地方の特色である複弁反花座を有する。笠の軒反には鎌倉末期的な堅さがみられるが、水輪には張りがある。保存状態がよく、均整のとれた安定感がある。昭和一三年に、寺から三〇〇m離れた北谷の墓地から移建されている。
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十三重石塔
本堂前の立派な古式壇上積基壇の上に据えられている高さ約五.三mの塔で、花崗岩性、鎌倉時代中期の作で完成された美しさがある。保存状態がよく、端正で清楚な印象を受ける。塔身の四方には薬研彫で金剛界四仏を示す梵字が力強く刻まれている。この塔身の内部からは、水晶製の五輪塔が発見されている。相輪も般若寺と同じく水烟付のもので、精巧に作られている。
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不動石龕
石龕とは石の逗子のことである。奥壁に火焔光背付不動明王を薄肉に浮き彫りして,前面左右に角石柱を立て、その上に寄棟造型式の雄大な笠石を架けて石龕としている。軒反は鎌倉末期の様式である。また、奥壁に銘文があり、応長二年初夏(四月)六日としているが、三月一六日には正和元年に改元されているので矛盾がある。この矛盾は、それ以前に開眼日を予定して先に彫り終わってしまったことが原因であろう、というおもしろい経緯も伺った。
三重塔
寺伝によれば承和二年(八三五)創建、弘和二年(1382)の再建とされるが、昭和一八年の解体修理の際に二重目西側丸桁より嘉吉二年(一四四二)の銘が発見され、建立年代が明らかになった。山を背に、東向きに建てられており、総高は一七.五mと三重塔の中では小ぶりである。和様を基調としているが、禅宗様の拳鼻がみられる。拳鼻の意匠が二,三重で少し異なるのは室町時代の特色であるという。また、隅の大斗は皿斗となっている。そして、 各層の角にある尾垂木の上には邪鬼が潰されそうになって軒を懸命に支える姿が見える等特色ある細部を示す。内部は芯柱を二層で止めた形式とされる。
阿弥陀如来座像
欅の一木造で、像高二八四cmの大像である。像内部の墨書より、天慶九年(九四六)の作であることが判っている。平安初期彫刻(貞観彫刻)と藤原彫刻(定朝様式)の過渡期にあたり、仏教彫刻史に於いて貴重な作とされる。

浄瑠璃寺研修



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岩船寺と同じく、京都府相楽郡加茂町にある真言律宗の寺である。静かな山里の中にあり、のんびりとした時間の流れは訪れる人をほっとさせるだろう。
浄瑠璃寺の沿革は,寺に蔵される「浄瑠璃寺流記事」観応元年(1350)に記されている。永承2年(一〇四七)、現在三重塔に安置される薬師如来像を本尊として創建された。浄瑠璃寺という寺号は薬師如来の仏国土、東方浄瑠璃世界に因んだものである。現在の本尊は九体の阿弥陀如来像であり、江戸時代頃より九体寺とも呼ばれるようになった。
庭園 久安三年(一一四七)摂政藤原忠通の第一子伊豆僧正恵信が興福寺一条院より入寺してきたことで、浄瑠璃寺の寺盛は大変盛んになった。興福寺権別当であった恵信は、別当職就任をめぐって、前右大臣藤原宗忠の子である覚晴に先を越されて敗れた事を不満として、浄瑠璃寺の延観上人のもとへ隠棲したのである。恵心はまず寺域の境界を定め、久安六年(一一五〇)池を掘り石を立てたという。恵信の祖父藤原忠実は、作庭記を伝承した一人であり、恵信も作庭に長けていたのではないかといわれる。そして保元二年(一一五七)九体阿弥陀堂を現在のように池の西岸に移築した。その後治承二年(一一七八)三重塔が京都の一条大宮から移建された。これをもって現在の伽藍の中心である九体阿弥陀堂と池と三重塔が、池を中心に東の薬師如来、西の阿弥陀如来という浄土の世界をを具現化した美しい構成となった。現存する浄土式庭園の中でも、唯一建築とともに保存されている貴重な文化財である。
また、庭に関しては元久二年(一二〇五)、京都から少納言法眼という人がきて、楼門内池辺に石を立てたという記録が浄瑠璃寺流記に残っている。
池は、東岸に州浜形式の出島、岩島の有る中島を中心に構成され、地割が美しい。岩組は少ないが、岩島は対岸との遠近感を強調していて効果的である。
石燈籠 九体阿弥陀堂前と三重塔前に一基ずつ、一基献灯形式で据えられている。阿弥陀堂前の作は同時代の作だがひょろ長くてバランスが悪い。三重塔前の方が名品である。花崗岩製、高さ二.一五m、南北朝時代貞治五年(一三六六)の銘有り。典型的な大和様式の六角形石燈籠だが、鎌倉時代の作と比べて装飾的になってきている。基礎の竿受座には蓮実彫刻、子房請花を有し、中台上部には反花を刻んでいる。また、火袋の彫刻も、一茎蓮上に円窓を刻む等大変凝っている。全体的なバランスも優れていて、大和様式の進化を示す貴重な遺品である。
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石臼
本堂前の池側に置かれている。南北朝時代の永仁四年(一二九六)の作で一二面という珍しい平面を示す。基礎の部分と上部が一石造で、側面に銘文が刻まれていると聞いたが、基礎の部分は埋まっており、穴の部分には水が溜まり水生植物が入れてあった。側面もかなり風化している。
最後に九体阿弥陀仏をゆっくりと干渉して寺を後にした。

東大寺 転害門



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東大寺草創以来の貴重な遺構である。西側に設けられた三カ所の門のうち北門にあたる。東大寺の鎮守社である手向山八幡宮の転害会の旅所に用いられたことから転害門とよばれる。三間一戸の八脚門 で、中央間二〇尺、脇間一八尺と大規模で雄大である。元来は三斗で二重虹梁蟇股を備える天平時代の標準的な構造であったが、鎌倉時代の大修理の時に大斗上に通肘木を加え、その先端で出組とした。そのため屋根が高く、大きくなり、より立派な姿になった。基壇部分も古式の壇上積で立派である。

2007年03月27日

朝倉彫塑館の庭園

渡り廊下からの景


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縁先手水鉢の景
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先日、お客さんに勧められて朝倉彫塑館を訪れました。所在地は東京都台東区谷中で、日暮里の駅から徒歩5分程の高台にあります。建築は、彫塑家 朝倉文夫(1883~1964)本人の設計、監督のもと昭和10年に完成したもので、西洋建築と日本建築がうまく融合しています。派手さは無いのですが、細部まで丁寧な仕事が施してあり、大切に管理されているので、主張しすぎない粋で落ち着いた空気を感じる事ができました。
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中庭は、「五典の水庭」と呼ばれ、地下の湧水を利用し、儒教の五常の教えを造形化した「仁」「義」「礼「智」「信」の五つの巨石と鞍馬石の飛び石、六方石の橋が配されています。また、1月の白梅に始り12月の山茶花で終わるまで、四季折々に白い花を咲かせる木が植えられています。それは、生涯にわたって素直さや純粋さを持ちつづけたいとのぞんだ朝倉氏が、白い花を素直、純粋の色とみたところからきています。しかし「物事は満つれば欠くる」の喩えもあり、完璧を避けるため、一本だけ赤い花(百日紅)が植えられたという事です。

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